家に帰ってドアを閉めたとき、泣きたいような怒りたいような感情が、ぐーっと体に落ちていく感覚がありました。意識したのは、ほんの一瞬で、手を洗い、服を着替えてるうちに、平静を取り戻してゆきました。冷蔵庫を開けて、食べるものを探しました。野菜が見えましたが、食べる気になれません。お酒もきらしています。遅い夕食を兼ねて、近くのバーに行くことにしました。

住宅街にある、こじんまりとしたお店です。一人のお客が多いので、女一人でも周囲の目を気にせずにいられます。窓際の席に座り、生ビールを注文しました。メニューを眺めながら、今日、会社であったことを思い出していました。

「はっきりいって、君には絵の才能はないと思います。」上司にそう指摘されました。「そうかもしれないですね。」私は笑って答えました。作っているカタログについて、相談していたときです。絵は観るのも好きだし、描くのも好きなのですが…。

先輩たちと歓談しているとき、こういうことも言われました。「君、朗らかで落ち着いてるよね。何があっても動じない」 「いやー動じないんじゃなくて、彼女はなんにも感じない女ですよ、あっはっは」 私も一緒に笑いました。今日は仕事もあまりうまくいかず、夜遅くまで一人で残業しました。

ビールがきました。ぐーっと飲み干しました。スイッチが一つ押されたような、タガが少しずつ外れていくような感じがします。「チーズ4種の盛り合わせとバゲット、アボガドのサラダをください。あとはグラスワインを」

赤ワインを二杯つづけて飲んだあと、スコッチをロックで注文しました。会社帰りに時折り自覚する頭痛。今夜は残業のせいでしょうか、後頭部だけでなく、奥歯と右顎にも鈍い痛みがありました。それでもお酒で、だんだんと紛れてゆきます。読みかけの、ヘッセの「デミアン」を開きました。

タバコの煙が臭って、読んでいた本から目をあげました。私の傍を通り過ぎて、カウンターの端に、30代なかばの男性が座りました。スーツと、少しくたびれた様子の背中、同じく会社帰りのようです。その横顔に思いつめたような翳りをみて、私は彼に興味を持ちました。酔いのまわった頭に、スーツに隠された彼の裸体が浮かびました。セックスしたいと思いました。今夜、彼とセックスしたい。熱い衝動が体を走りました。彼との一夜をロマンチックに想像しましたが、彼は煙草を吸ったあと一杯だけ飲んで、店を出てゆきました。

「スパゲッティ・カルボナーラと、ビールをください」 もう胃はいっぱいなのに、さらに飲み、そして食べました。もっと飲みたい気持ちもありましたが、お店の人に、よく食べる女だと思われたくなくて、私は店を出ました。

もうすぐ0時になろうとしています。お酒と食べ物でいっぱいの私のお腹は、体から垂れ下がって、なにか自分のものではない気がしました。自宅までの道を歩きます。家のお風呂から香る石鹸、咲き始めたキンモクセイ、放り出されたゴミの袋、製材所の湿った木屑。通り過ぎる風景とともに、匂いが変わってゆきます。自動販売機の白熱灯がたてる低音、遠くを走る最終電車、秋の虫。空には星が、いくつか見えました。

頭上を流れゆく 幾千もの光に 百万年の未来を 見たような気がして
走り抜ける風の 声になにやら もの寂しい祈りを 聞いたような気がして

かつて付き合っていた、初恋の人の詩を懐かしく思い出しました。いま私はこうして飲んだくれて、いったい何をしているのでしょうか。

家に着きました。真っ暗なので電気をつけました。一人暮らしです。寝室の床に座りこんで、ヘッドフォンをして、デュ・プレのエルガーを聴きました。彼女のチェロに、抑圧を切り裂いてあふれ出す激情を感じ、気がつくと、涙が流れていました。

高貴、侵入、屈辱、怒り、抑圧、耽溺。スタフィサグリアのいくつかのキーワードです。スタフィサグリアは、ある種(高貴な)受身的なレメディで、まずは受け入れるところから始まります。そして受け入れた中で納得できないことがあったとき、だんだんと不協和音のように、違和感や怒りや屈辱を感じます。しかしその怒りをぶつけることはできず、すごく怒りがあってもその場では笑ってみたりして、そのあとにそういう自分が許せなくなる。抑圧された屈辱感や怒りは、自慰や過食やアルコールの乱用といった、何かに耽溺する形で表現されやすい、そのような循環があります。