永松 昌泰 氏

永松 昌泰 氏

  • ハーネマン アカデミー オブ ホメオパシー学長

元来は典型的文科系で、歴史や文学、哲学が大好きだったが慶應大学工学部で突然に数学や量子物理学に魅了され、その後欧米留学し(コロンビア大学・パリ大学)量子物理学の因果論などを追求。また森有正や小林秀雄、デカルト、パスカルなどの研究、文学、仏経、音楽、武道、ゴルフなど、さまざまな道程を経てホメオパシーと運命的に遭遇する。それまでは、どの世界を追求し掘り下げていっても結局通ずるところは一つであるとは感じていたが、それはあくまで方向性であって、特定の事柄ではありえないと考えていた。それゆえにホメオパシーという一見特殊な世界が科学・芸術・宗教などの究極的な融合であると確信した時にはまさに驚嘆。それまで遍歴してきたあらゆる事柄が具体的な細かい事に至るまで、全て両手両足を思う存分に伸ばしてそのままホメオパシーに活かせるなどとは想像もしていなかったという。

古代からの智慧と科学との幸せな融合を目指して研究を進めているかたわら、理想的な教育機関を創ろうと英国と日本両国にハーネマン アカデミー オブ ホメオパシーを設立。英国校と日本校の学長を務め、英国と日本の間を毎月忙しく往復する一方、日本滞在中はホリスティック医療の最先端をいく帯津三敬病院で、ホメオパシー医療を行なっている。

99年3月の授業から

(中略)

ホメオパシーのレメディーのどこが素晴らしいのでしょうか? それは、「レメディーは物であって物でない」からだと思います。ある意味では物質であるけれども、その実、ある種非物質である。非物質、非定型なエネルギーですが、非定型というものには、実は極めてくっきりとした「形」がありますが、なかなかそうは見えません。そして非定型は、すぐに「無定型」に流れていきます。ですから常に物質に具象変換しながら考える必要があるのです。エネルギーというのはエネルギーだけの「自動律」のみで考えることができますが、そうなると残念ながら次第に「自己白熱化」「自己目的化」して、逆に「真実」から離れることにもなりえます。そういう危険はいつもあります。

例えば患者さんを診る時、1秒で診なければならない時は1秒で診れるようになります。1時間でと言えば1時間、10時間と言えば10時間。1秒で診るというと、ほとんどintuitionだけになるわけですが、それは鍛えられたintuition 、洞察であるわけです。直感というのは単なる山勘のように、ただそんな感じがするというのではなく、はっきりとした理由や秩序、ある意味では物質の世界よりもっとはっきりした大きな秩序というものが目に見えない世界には本当はあるわけです。これは一つ一つ、一歩づつ訓練をしていくことができます。無形の世界の訓練をすればする程、逆に形というものを大事にするようになってきます。形の本当の意味がわかってくるのです。

例えば、ハーネマンにしても文字通り、患者の話すこと全てを書こうとしました。一見、直感がそこまで磨ぎ澄まされれば何も書かなくてもいいように思うけれども、そうではありません。直感が鍛えられれば鍛えられるほど、「物」の重要性、その直感に頼らないということ、物に基づくということの重要性、その重要性に気づいてくるのです。絶対そこで油断しないというか、落とし穴にものすごく敏感になるんです。その落とし穴というのはさっき言ったように、自分の中にも自分の周りにもあらゆる罠が用意されているのです。

例えば、芸術でも能とか狂言とかには、「形」というものがあります。よく安易に「昔の形は現代にはそのままでは通用しない。だから能や狂言においても、昔の形をただそのまま踏襲するのではなく、現代の心を表現した現代の形を作らなければならない」とわかったようなことを言ったりする人がよくいます。

そんな単純なものではありません。形ではなく、精神・心だと安易に言いますが、実はある意味においてはその形の中に全てがあるのです。形というのは、本来何かを「制限」するものではありません。むしろ逆にその形があることによってそこから無限に、自由に躍動していけるもの、それが本当の意味での形なのです。逆説的にいうと、その形に「従えば」従うほど、逆に自由になり自在になる。それが形というものの持つ本当の力なのです。

(中略)

少し違う話になるかもしれませんけど、アダムとロビンとは随分「あり方」が違います。ロビン・ヘイフィールド(『ホメオパシー治療薬』著者)の場合は例えるとモーツァルト、アダムの場合は例えるとベートーベンです。もちろんどっちが優れているということではありません。ロビンの場合は全て自然に色々なことが行なわれています。それはもちろん素晴らしいことです。生まれながらにしてある種の自由というものを持っている。アダムの場合はある意味では格闘をしています。ちょうどベートーベンのように。

ベートーベンは確かに若いときから格闘してきました。彼の人生は苦しい格闘の連続であったといえましょう。彼の音楽も、「こうあらねばならぬ」という「必然」を求めて常に格闘し、楽譜も何度となく汚い字で書き直され、長い苦闘の末、あのような偉大な音楽を建築していきました。しかしその晩年、ベートーベンはついにそれまでと全く違う、ある種非常に融通無碍なというか、自由な音楽を造るに至りました。それまでのあらゆる必然というものを積み重ねたようなものから、何とも言えない究極的な自由な音楽を作ったわけです。それは「命がけの自由さ」というか、あらゆる必然というものを極限まで押し進めた結果、フーッと昇華して立ち上ってくるような自由さというか、そういう自由に至ったのです。モーツァルトの場合は、生まれながらにして持っている本質的自由さ、格闘の末獲得する自由さではなく、生得的に持っている自由さです。どっちが優れているというのではないのです。ある人はモーツアルトの方が、全てがナチュラルで自然なのだから、そちらの方が優れていると思う人もいるでしょう。それもその意味においては きっと正しいでしょう。でも、どっちが優れているかと比べられるものではなくて、「あり方」が違うのだと思います。

(中略)

世界をありのまま見ると一口にいっても、「ありのまま」とはいったい何でしょうか? そしてどのようにすれば 「ありのまま」が見えるのでしょう? ありのまま見るということを、仏経では一如と言います。自分と他に一切の区別がなく、そのまま「なりきる」、そのまま「ずぶずぶ」入り込むことです。それはサント・ブーブのいう「全体的知覚」という宇宙的感覚と一脈通じるものでしょう。

しかし「言うは易し、行なうは難し」。これほどシンプルなようでありながら、これほど難しいことはありません。私たちが何かを認識・知覚する時に、まっすぐそのままそのものに対するというのは、本当に至難の業です。私達はどうしても分析的に見てしまいます。いわく「Aさんはとても意地悪で、いつも人を刺すような毒舌をところ構わず吐くし、・・・」「Bさんは本当に心優しい暖かい人で、あんなに良い人は今時珍しい。この間も、忙しいのに私が悩んでいた時にわざわざ来てくれて、本当に嬉しかった・・・」というように、私たちは何かを知覚しようとする時には、どうしてもいくつかの要素に分けて知覚します。いきなり全体を把握することはほとんど不可能です。そしていろいろな要素が次第に統合されて全体を把握しようとするわけですが、ここでさまざまな問題があります。要素を統合したものは、果たして全体になるのか? もしそれは不可能であるならば、我々はいかにしていきなり「全体」を把握できるのか?

そうですね、比喩的に禅に例えてみましょうか。禅には大きく二つの流派があります。一つの宗派はただ座るだけ、座る以外は何にもしません。ただひたすら座る。もう一つは公案というものをやる。公案というのは、例えば有名な「隻手の考案」(両手で拍手をすると音がする。では片手で拍手をするとどのような音がするのか?)のように、いわゆる「合理的」に考えても決して答など出てこない問題です。

公案をやるのか、ただひたすら座るのか、これはさきほどの、分裂なのか、分裂ではないのか、ということとそのまま呼応しています。しかしどちらも最終的には同じです。物事、存在のあり方をありのまま見ていくこと。自分の中に世界がありのまま投影されるということ。言葉の迷いから自由になっていくということ。我々のプログラミングから 自由になっていくこと、これを見性といいますが、つまり物事の性質、性を見るということですね、物事の本来のあり方、秩序、その根元的な姿というのがそのまま立ち現れていって、単に外から眺めているようなものではなく、それが自分自身の中に全て成就する。それを見性成仏というわけですが、その方法として一方は、ただ座る、座り続ける。そしてそれが忽然と起こる・・・こともある。(笑) それに対して公案とは何かというと、いわゆる狭い意味での合理的な思考ではとても解答が出ないような問題、全存在がそれに対しないとどうしようもないような問題を与えるわけです。

そうすると、小理屈的な言葉の「虚妄」、そういうものに引き摺り回された、色々な思考が起こります。分裂的、分析的、思考。それをいつまで考えても、その平面で何を考えても答えは出てきません。しかし、それを無限に突き進めていくと自然にフーッとそこから抜け出てくる、見性成仏する、・・・こともある。(笑)ニーチェのいうtranscend超越、もしこの言葉に実体があるならば、その意味でしかありえないと思います。

これは、単なる中庸ではありません。あらゆる extreme、極を含み、全ての合理、「非合理」を含んだ宇宙的合理。そこに到達するには初めから宇宙的な合理の中に身を置くということ、単に座るということ、ひたすら座る、思考もしない、ただ座っていく中でフーッと何かが起こったりする。また一方では合理というもの、狭い合理を突き詰めて、それをいっくら極めても何にもならない、開けない、もう死ぬしかないようなところに行って初めて立ち現れてくるような命がけの自由、そういう姿です。一つ公案を「通過」する度に、一枚薄皮が剥げていく、一つのエネルギーが成仏していく、そしてちょうど正中線が全てを貫くように、有限から無限へ通じて見性成仏していく。どちらが正しいというものではありません。比喩的に申しましたけど、そういう感じです。

(中略)

要はさっきの「分裂」ということに戻るわけですが、実は言葉というものはそれ自身「分裂」を意味しています。どういう意味かといいますと、言葉というのはそれ自身一つの「方向性」を持っています。例えば、小さいというと小さいという方向性しか向いていません。大きいというと大きいという方向性しか向いていない。言葉というのは、そういうふうに一つの方向性しか向けないという宿命を負っています。例えば物事というのは単に大きいとか小さいというふうに片づけられませんよね。しかしそれをそのまま、ありのまま表わすといっても、どうやって表わしたらいいのでしょうか? 言葉によってそれを表現する時に、先程 A&B という説明を致しましたよね。私たちはどうしても A or B、つまりAかBかどちらかしかないような錯覚、Delusionを持っています。ちょうどハムレットのように。しかし実際には世界はAかBに分断、分裂しているわけではありません。AでもありBでもある、またはCでもあるかもしれない。Aであり、同時にBであることとは矛盾しない。ちょうど光が粒子であり、また波動であるように。

光は「100%粒子」であり、そして「100%波動」である。それらは、相矛盾し合うのではなく、重なり合って全体の描像(全体そのものではありません)を成す。かつては粒子であることと、波動であることとは、完全なる矛盾であると信じられていたわけですが、それは古典的世界観が造った幻想 Delusion 、または「科学的世界観」という「信仰」が造り出した「虚妄」であったわけです。そうであるはずだ、という勝手な考えであり、実際には何の「根拠」もなかったのです。

話を元に戻しますと、言葉というものがそれ自身持っている限界性というもの、一つのベクトル、方向性しか言い表せないという限界性に我々がよく自覚すること、これがまず出発点です。しかしそこから今言ったような言葉の限界性の「奴隷」になるのか? それともそれをよ~くわかって、その上でさっき言った「超越」するのか? 超越すれば、言葉を使おうが、言葉を使わないで瞑想だけで深めていこうが、達するところは最終的には同じです。でも言葉というのはそれ自身が分裂している。ある方向性というものを持っている、それ自身が迷いの世界に我々を導いてしまうこと。それに対して我々はよ~くそれに気づかなければならない。その迷いの世界というもの、それがこのdelusion、幻想・妄想なのです。そして色々な迷いの世界からどうやって抜け出していくかということ、これが全ての中心に来るのです。

仏教の話をもう少しだけしますと、実は日本に伝わっている仏教は仏陀そのままの言葉というのではほとんどなく、仏陀の言葉をだいたいそのまま表わしているのはいわゆる原始仏典と言われるものです。これは実はこの百年、せいぜい百数十年位前からヨーロッパ経由で入ってきています。奈良時代に伝わったもの、華厳を代表とするような仏教、いわゆる大乗仏教と言われているのは、ある意味では「創作」なんですね。仏陀の言葉をもちろん基にはしてますけども、仏陀の死後、随分経ってからインド、例えば龍樹ナーガルージュナとか色々な宗教的な天才達が作ったものです。それはそれで、ものすごく精緻で素晴らしい心の分析というものを行なっています。これはすごいです。

唯識にしましても、はっきりとした形で、哲学として確立されたんですね。そして日本的にも色々な発展をしました。一方ヨーロッパの方では文献的な研究というのは非常に盛んで、スッパニアータとかアーガマとかいわゆる原始仏典といいますか、仏陀がしゃべったそのままの言葉に非常に近いもの。こういうものが深く研究されています。私も約二十年位前にそういうものを随分読んでいた時期がありました。

原始仏典は日本では「小乗仏教」と言われています。いわく「小乗仏教は自分一人の救いしか求めていないので、広く世の衆生を救わんとする大乗仏教より劣っている」、などと勝手なことを言われて貶められていますが、これは素晴らしいものです。その後の華厳とか法華教とか、そういうふうなある種巨大な哲学的文学的世界というふうな世界とはまた全然違う味わいというか、あり方をしています。非常に親しみやすい言葉で、真っ直ぐに本質を突いた絶妙な比喩を使っています。この比喩の絶妙さというのは本当に比類がありません。「バラモン」とは何かということについて色々な比喩を使って説明しているところは、いつ読んでも本当に感動します。長いですので、かいつまんで引用します。

「世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。生まれによってバラモンであるのでしょうか? あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解かりませんから、話してください。-- われらがバラモンの何たるかを知りうるように。」

師は答えた、「ヴァーセッタよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類)の区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(『われらは草である』とか、『われらは木である』とか)言い張ることはない。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れはいろいろと異なっているからである。

小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。

腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。・・・・・・以下同じ。

次に、水の中に生れ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。・・・・・・以下同じ。

次に、翼を乗物にして虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。・・・・・以下同じ。

これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についても、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

身を稟けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで種々の技能によって生活する人があれば、かれは職人であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで売買をして生活する人があれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで武術によって生活する者があれば、かれは武士であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで司祭の職をして生活する者があれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。

人間のうちで村や国を領有する者であれば、かれは王であって、バラモンではないと知れ。

われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは、<きみよ、といって呼びかける者>といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執着のない人、--- かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、--- かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を滅して、目ざめた人(ブッダ)、-- かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

・・・中略

明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、--- かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

・・・中略

敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執着する者どもの間にあって執着しない人、--- かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

・・・中略

前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅し尽くすに至った人、かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

(姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭い人になるのである。

行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いと熟知している。

世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--- 進み行く車が轄に結ばれているように。

熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、-- これによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である。

三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者によっては、梵天や帝釈(と見なされる)のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

岩波文庫 ブッダのことば 中村元訳 P134~P141

如何ですか? また非常に印象的な比喩でこういう言葉がありました。ダンマパダ(法句経)の第五章 愚かな人の一節です。

「愚かな者は生涯賢者の近くにいても、真理を知ることが無い。ちょうどスプーンには美味しいスープの味が分からないように。 聡明な人は、ほんの一時賢者のそばにいるだけで、ただちに真理を知る。優れた舌が美味しいスープの味を直ちに知るように。」

例えばそんなふうに色々な比喩がたくさん集められています。どうしてそういう話をしているかというと、比喩ですね。比喩というもの、隠喩というもの、メタファー。隠喩、これはある意味では「宇宙の言葉」として考えてもいいんです。隠喩とは響きあいです。言葉と言葉のある種の響き合い、ある種のハーモニーというものを起こします。この宇宙の言葉といいますか、何かの比喩とか隠喩というか、何か響き合うもの、これはなかなか理解するのが難しいかもしれませんが、これがホメオパシーでいう「似たもの」と同じように考えても良いです。これについての詳しい話もまた話し出すときりがありませんが、例えていうと、アリストテレスの三段論法ではなく、宇宙の三段論法とか、同じ三段論法という言葉でも、アリストテレス的三段論法と、宇宙の三段論法とは全然違う三段論法をしています。

比喩・隠喩の三段論法であり、表面的合理ではなく宇宙的合理の響き合いです。

アリストテレス的三段論法
人は死ぬ。
ソクラテスは人である。
ソクラテスは死ぬであろう。
宇宙の三段論法
人は死ぬ。
草は死ぬ。
人は草である。

アリストテレスの三段論法とは、主語の同定と代入による分類的分裂的なものです。それに対して宇宙の三段論法とは、述語の同定、つまりパターンや構造、組織の類似性を指し示すと言えます。これについては違う時に説明しますが、比喩や隠喩がなぜ宇宙の言葉なのか? と簡単に申しますと、比喩には「特定の方向性」がありません。低いとか高いというふうに特定の方向、特定の平面的両極に向かっていくような単方向への向い方ではなくて、それ自身がありのまま全体が響き合っているのですね。比喩というものは。全体が響き合っているのです。

我々は言葉を通じて色々なものを把握し、そして全体的な把握を目指していくわけです。これは先程の禅の例えのように、言葉を通じても全体的知覚、把握、見性は可能ですが、また一方言葉というのはこれさっき言ったようにそれ自体分裂ですから、言葉に閉じ込められている時は決して全体的な把握はできません。しかしながら、たとえ言葉から出発してもその閉じ込められたところから抜け出してくると、つまり自由になってくると、それは究極的な自由にいきなり飛び込みます。ある意味では言葉の引力というのはそれだけ強いというか本当にそこから抜け出すことができたら、いきなりそれは究極の自由に飛び込めるくらい、言葉による迷いというものは深いと言うこともできます。

さっきの質問の中で、直感というものを鍛えれば鍛えるほど、形のない世界に熟練すればするほど、形を大事にする、形の重要性を絶対ないがしろにしないということを言いましたけれども、それとも関係をします。「形」というのは、例えばここでいう「言葉」と全く同じというわけではありませんが、仮に同じだとしても良いでしょう。

「形」や「言葉」に閉じ込められている限り、迷いになります。しかし、そこから抜け出ることができるならば、「形」や「言葉」があることによって初めて本当の自由になれる、そういう循環になります。今いきなりこう言っても、わかりにくいかもしれません。今お話していることは、とても微妙なことです。

(以下省略)

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