アカデミーライブラリー

レメディー物語

セピア
(Sepia)

何を考えるでもなく、ぼんやりと水槽の中を見つめていた。さっきまで緩急自在に泳ぎ回っていたイカが、今は静止しているかのように、宙に浮かぶように漂っている。

その姿をじっと見つめていた―気付くと、子供が激しく上着の裾を引っ張っている。急に邪魔され、カッとなり怒鳴りつけた。早足で歩き始めると、子供は泣きながらついて来る。周囲は何事かとこちらを見ている。その視線も、子供の泣き声も、彼女は意に介さなかった。

泣き声に気付いた夫が慌ててこちらにやって来る。子供を抱き上げるといつものように宥め始めた。

しばらくすると、怒鳴りつけたことを後悔し始めた。でもどうしようもない。いつもこう。子供は自分に甘えたいのだ。でも側に寄って来られたり、ちょっかいを出されると、イライラしてつい怒鳴りつけてしまう。ときには手を挙げることさえ。子供のことを愛しているはずだけれど、愛情や優しさを与えることが出来ない。感情が停止してしまったかのように、自分の中に喜びというものがないのだ。ただ一人でいたいという思いが募り、母親、妻という役割から逃げ出したかった。それは、とうてい自分には背負い切れない重荷のように思われた。

水族館を出ると、海辺のレストランで食事をした。いつも胃が空っぽで垂れ下っているような感じがあるのだが、何か食べると良くなる。サラダを頼むと、ビネガーをたっぷりとかけて食べた。酸っぱいものが無性に欲しくなることがあり、食べると少し元気が出た。チョコレートも大好きだった。夫はこってりした感じのポークソテーを食べている。見ているだけで吐気を覚えたが、それは脂肪たっぷりの料理に対してか、それともそれを平然と食べている夫に対してなのか・・・多分両方だろうと思った。

食事が済むと夫と子供は砂浜で遊び始めた。自分はとうてい加わる気にはなれず、遊歩道沿いに作られたデッキに腰掛けて、彼らをぼんやりと眺めた。本当はもう一人いたはずの子供のことを思った。

一人目は5ヶ月のときに流産してしまった。重くなった胎児を支えきれず、子宮口が開いてしまった。二人目は、早期に流産を防ぐ手術をして無事に生まれた。無事の誕生をあんなに喜んでいた自分は、一体どこに行ってしまったのだろう。子供を産んだ後、何かが変わってしまったように思う。夫とのセックスが嫌になった。最初は無理に応じることもあったけれど、次第に夫に対して嫌悪感を抱くようになった。夫の何もかもが許せず、粗探しをしては皮肉な言葉を浴びせかけた。生理の前は特に最悪だった。

いつもイライラして一人になりたいと強く思うようになった。愛情とか、優しさとか、そんな当たり前の感情が自分からなくなってしまったように思えた。感情的な停滞―夫にも子供にも無関心になって行った。

昔は、心も体ももっと活発な自分がいた。仕事をテキパキとこなし、いつも何かをしていた。結婚するまではずっとダンスを習っていた。踊っているときはいつも爽快。でも今は、とても踊れそうにない。そんなエネルギーが自分のどこにあるというのだろう・・・。

時計を見るとだいぶ時間が過ぎていた。だんだんと考えることさえ億劫になってきた。ずっと海風にあたっていたせいかもしれない。海辺はあまり好きではなかった。人一倍の寒がりで、血行も滞りがち。一年中、足先が冷えていた。

翌日はいつもに増して憂鬱な感じがした。長年便秘に苦しんでいるが、残便感が特にひどい。肛門にしこりのような感じがある。夕方には雷雨になった。窓辺に佇んで雷を見た。悲しみと虚しさ。自分でもよく分からないこの状態から、どうやれば抜け出せるのだろう?どうやればこの平衡状態を破れるのだろう?

自分はどうかしている―。

数日後、精神科へ行った。最初はずっと黙っていた。少しずつ話し始めると涙がぽろぽろと頬を落ちた。夫とのことになると涙が溢れ出し、それ以上話すことが出来なくなった。その後は、自分でも訳が分からぬままに、ただ泣き続けた。

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